集団自殺に失敗した平凡な少女が、やがて神になるまで
本当に怖いのは人間。(信じる信じないは別として)幽霊や悪霊も、元は人間の妬み、嫉み、恨みなどによるものだ。
そんな人間の恐ろしさが鮮烈に表現された一作が『自殺サークル』である。本作は、集団自殺で生き残った主人公・甲田小夜が学生を集めて“自殺サークル”を作り、悲しい結末を迎えるまでの様を描いたサイコホラー作品だ。
鬼才・園子温監督の同名映画『自殺サークル』(2002年)を古屋兎丸氏が独自の解釈によって漫画化。映画とは異なる、鬱々とした切ないストーリーを堪能できる。
映画同様、54人もの少女たちが手を繋ぎ、一斉に電車に飛び込む冒頭シーンは実に衝撃的だ。本作でも、繊細な画力によってその不穏さや禍々しさが見事に映し出されている。彼女たちは、何故そのような最期を選んだのか。
甲田小夜は心に深い傷を負っていた。
絶望の中、光子という少女と出会い、自殺サークルに入り集団自殺を決行するも、ただ一人生き残ってしまう。友人・京子の制止も虚しく、小夜は周囲に祀り上げられ、次第に光子としての役割を果たすようになる。
小夜の邪魔をするものは次々と消され、果ては残酷な結末を迎えてしまう。
人間が生み出す、終わりのない哀しきダークストーリー
主人公の小夜は、現在でもどこかにいるごく普通の少女なのかもしれない。
多感な少女の心はガラス細工のように不安定で壊れやすい。ありふれた学生生活を送りながらも、心に闇を抱えている。リストカットなど、自分を傷つけることでしか満たされない。
そんな少女を救えるのは、ありのままを受け入れてくれる存在、「辛かったね」と認めてくれる言葉だ。家族や友人では、心配のあまりなかなか許容できない。そこに隙が生まれ、少女はたやすく深淵に飲み込まれてしまう。
本作では、少女が深淵に沈む過程や無意識に神格化されていく様、現状にあがく友人の姿が見事に描出されている。それらは新興宗教やネットワークビジネスに“堕ちる”心理にも似ている。傷ついた心に、優しい言葉は甘い蜜だ。人間は言葉とタイミングさえ操れれば、神にさえなれる。組織が巨大になればなるほど手が付けられない。人間は無限の可能性を秘めた生物であるからこそ、何より恐ろしい。小夜たちの日々には、その全てが凝縮されている。
古屋氏ならではの独創的なストーリーもさることながら、陰鬱とした雰囲気、センシティブな作画はとても美しい。少女たちの抱える闇がスッと心に浸透し、言葉にならない虚しさに包まれる。
彼女たちが行き着いた先に本当の救いや解放はない。しかしながら、そこにしか行き場がなかったのかもしれない。周囲の大人や友人が彼女たちを救える機会は確かにあった。この物語には、別の結末もあったはずなのである。小夜の生き様には、大いに心を揺さぶられる。
世の中に多くの事例があっても新興宗教やネットワークビジネスがなくならないように、小夜のような人間や深淵へと導く悪魔がいる限り、この物語に終わりはないのだろう。その本当の恐ろしさが、ここにはある。
物語は悲しく痛ましい結末を迎える。
哲学者フリードリヒ・ニーチェの著書『善悪の彼岸』に有名な文句がある。
——―「怪物と戦う時は自らも怪物にならぬよう、心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」
誰かを救うことは容易ではない。それでも幸せな結末を望むなら、ミイラ取りがミイラにならないよう心せねばなるまい。
いつだって、結末はひとつではない。
映画と漫画、似て非なる独特な各々の世界観を堪能せよ
『自殺サークル』は、古屋兎丸氏による、集団自殺でただ一人生き残った少女・甲田小夜のその後を描いたヒューマンホラー漫画である。元となる同名映画は2002年公開の園子温監督作品。本作は2002年3月にワンツーマガジン社から発刊、2008年に太田出版から復刻版が発刊された。全1巻。
冒頭を含む共通点はいくつかあるものの、本作のストーリーは映画と異なる。人間の恐ろしさにあふれた鬱々とした仕上がりだ。
不気味さが漂う独自の世界観を持った映画も面白いので、興味を持った人にはぜひ見てもらいたい。ただ、映画も本作もグロテスクな描写を含むため、苦手な人には注意が必要。
陰々滅々とした空気感や暗澹たる展開、ナイーブな作画は本作でしか味わえないので、独自の作風を存分に堪能してほしい。後味はやや悪いかもしれないが、読後感は悪くないはずだ。
いつの日かこの物語が終わることを祈りたい。