昨今の“スローライフ”ブームで再び注目される、1994年から2006年まで10年以上も連載が続いた名作コミック『ヨコハマ買い出し紀行』。その不思議な世界観は、未だに追従する作品が登場しないほど独特なものだ。
地球温暖化による海面上昇でヨコハマが水没!?
全140話にも及ぶ『ヨコハマ買い出し紀行』の物語は、近未来の神奈川県・三浦半島から始まる。とはいえ、「おそらく三浦半島のどこか」と想像できるだけで、正確な場所はわからない。なぜなら、陸地の大半が海中に水没しているのだから……。
地球温暖化で海面上昇が続いた近未来。文明社会は衰退の一途をたどり、人口も現在とは比べ物にならないほど減少し……。
などと書けば、治安も理性も崩壊寸前な、退廃した世界を思い浮かべるかもしれない。さながら映画『マッドマックス』のような。が、本作の世界観は真逆。80年代に一世を風靡したイラストレーター・わたせせいぞうの世界を彷彿させる、お洒落で穏やかな光景だ。陸地と海が描き出すコントラストは、コトー先生が自転車で走った与那国島を思い起こさせる?
かつて市街地や道路を照らした街灯は、街を飲み込んだ海面に上端部だけが浮かぶ。夕闇とともに海上の明かりが灯される様は、思わず見入るほど情緒的で。都市全体が水没しているのに、動力源は? などと突っ込んではいけない。それはもう、たまらなく“いい雰囲気”なのだから。
主人公のロボット美少女が紡ぐ世界は尊くも美しい
こうした“いい光景”を崩しがちなもの。それが、人間だ。
登場人物の心情や揺れ動く想い、キャラクターの存在感が増すにつれ、“光景”が崩壊していく作品は少なくない。ところが、本作の主人公=ヒロイン“アルファ”は、ロボット(アンドロイド?)だ。美少女人造人間なので、余計なことはしない。曖昧で危うげな世界観を、壊すこともない。
近未来のデジタル世界なのに、妙にアナログな光景。外見はどう見ても人間なのに、実はロボット。アンバランスすぎる基本設定にも関わらず、なぜか奇妙な関係性に違和感がない。淡々とした穏やかな時間の流れ、心を癒す風景、さらにはアルファの前向きな姿が相まって、そこに独特かつ不思議な作風が生み出されていく。
人里離れた岬でカフェを営みながら、行方不明なオーナーの帰りを待ち続けるアルファ。老いることがなく「ロボットでよかった」と思う彼女は、どこか尊い。不純な欲望や葛藤がない心も、美しい。アルファの純粋さが気づかせてくれる、人間の汚さ。それは、作品の隠しテーマなのかもしれない。
滅びゆく世界で“人生”という旅を楽しもう
物語に彩りを添えるギア類も、印象的&魅力的な要素に。アルファが乗る旧型Vespaのようなスクーターは、近未来の世界観にそぐわない、アナログな味わいを醸し出す。
オーナーから贈られた宝物で、アルファが大切にするデジタル風カメラは、実はロボットの視覚に関連した実験機器。彼女たちロボットの聴覚に繋がる、アナログレコードも同様らしい?
様々な謎要素が明かされないまま、物語は淡々と進んでいく。ゆっくりと、まったりと。世界は“滅び”へと近づいているのに、誰も、何も焦らない。
人間が成長するように経験を積み重ねたアルファは、ある日、大きな決断をして旅に出る。
「もっと知りたい」「もっと見てみたい」。
コーヒーを味わい、おいしいスイカを食べながら旅する彼女は、とても楽しそう。“滅びゆく世界”をどうこうしようなど、微塵も考えない。その姿は潔く、不思議なほど心地いい。
その理由は、作品に入り込めないから……だろうか。
キャラクターと一体化し、作品に没入する通常の楽しみ方が、この『ヨコハマ買い出し紀行』には通用しない。“光景”に浸ることはできても、必要以上に入り込ませてもらえない。読み手は、ずっと“傍観者”のままだ。
でも、だからこそ、アルファの歩みを素直に見つめ続けられる。彼女のように、人生という旅を楽しもう……と。