『取るに足らない僕らの正義』で気づかされた、人の感情や記憶に直接作用する曲のパワー

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『取るに足らない僕らの正義』(川野倫/トゥーヴァージンズ)

世間の認知度は低く、サブスク解禁もされていないが、一部の人たちから強く支持されているシンガーソングライターの多野小夜子が、唯一楽曲を公開していたSNSの投稿を全て削除した上で、突然姿を消した。小夜子の楽曲を自らの心のよりどころにしていた若者たちは、唯一信頼していた相手に裏切られたかのような気持ちになり途方に暮れつつも、それを機にこれまでの生活が少しずつ変化していく――。Webコミックメディア「路草」での川野倫の連載を1冊にまとめた単行本『取るに足らない僕らの正義』が、2024年1月11日に発売された。

宮崎出身の漫画家で、「ごめん」という別名義でも活動している川野倫。さまざまな音楽アーティストともコラボしているからなのか、「ごめん」名義の『たとえばいつかそれが愛じゃなくなったとして』(KADOKAWA)のレビューには、「back numberの曲が似合いそうな言葉」「クリープハイプの歌詞みたいな素敵な本」といったコメントが散見される。小説を楽曲化するYOASOBIのように、どこか楽曲を漫画にする感覚に近い部分もあったりするのかも……と思いつつ、最新作の『取るに足らない僕らの正義』の中にも、「音楽」が持ち得る、人の感情や記憶に直接作用するパワーを感じずにはいられなかった。

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「切実な想いを綴ったラブソングとそれを歌う17歳の女の子。俺にはちっともわからない」

たとえばそれは、小夜子が突然“垢消し”したことに気付き、泣いてショックを受ける17歳の女子高生・明日花と、彼女が一方的に好意を寄せている、9歳年上の雅臣との間においては、こんな形で現れる。正直「泣くほどか?」と訝しがりながらも、「世界で一番好きな曲だから、雅臣くんにも好きになって欲しいと思っとったと……」と涙を見せる彼女を前に「じゃあ、明日花ちゃんが聴かせて。歌えるやろ、好きな曲なら」と促した雅臣は、日頃からギターを弾いている様子の明日花自身に、小夜子の歌を弾き語ってもらうことにする。

だが、明日花の歌を聞きながら「切実な想いを綴ったラブソングと、それを歌う17歳の女の子。こんな歌が泣くほど好きな女の子。俺にはちっともわからない。わからなくて、わからないことに、腹が立つのはなんでだろう――」と自問自答した雅臣は、日々怒ったり泣いたりしながら感情をむき出しに生きる明日花に対し、「もっと何かを諦めながら生きていかんと、そのうち壊れるよ」「好きな曲がひとつ消えても、世界の何も変わらんやろ?」「俺は、君みたいに不器用そうに生きとる人が嫌い……」と冷めた目線で説教し、激高した彼女に頭からジュースをかけられる。そして明日花は、ずぶ濡れの雅臣を前に「私は、そういう考えの方が嫌い。達観した気になって。色んな気持ちから逃げて。そういう大人には私は絶対ならん!」と啖呵を切り、「私は、大切なもののためなら、いくらでも傷つくと」と宣言する。

好きな曲がひとつ消えたとしても、自分を取り巻く世界は本当に何も変わらないのか――。

このふたりのやりとりを目にした直後、この章の冒頭に掲載された小夜子が作詞・作曲した楽曲「愛の上限」の歌詞を今一度振り返ってみたのだが、「正直共感できる要素は何もないな」と感じてしまった自分は、もはや雅臣サイドの人間なのだろう。だが、かつては(いや、お恥ずかしいことに、20代後半くらいまでは……)現役高校生の明日花と同様に、激情型の人生を自ら好んで歩んでいたはずだった。だが、そんな“夢見る夢子”も30をとうに過ぎ、理不尽なことにいちいち立ち向かう気力も体力もいつのまにか失って、いまでは「初めから何も期待しないことだけが、できるだけ傷つかずに生きていくための秘訣である」とすら、考えるようになっている。だが、「果たして本当にそれでいいのだろうか」と、学生時代に夢中で聴いていたロックバンドのボーカルの訃報を前に、ひとり、虚無感に苛まれてもいる。

自分が好きな曲がこの世界からひとつ消えたことを、人生の一大事だと嘆いて自らギターをかき鳴らして泣きながら歌い上げている明日花の方が、“エコモード”という名の“惰性”で生きている今の自分より遥かに眩しく尊いことは間違いない。多野小夜子の楽曲を聞いても響かないことは明らかだが、かつての自分にも明日花にとっての小夜子の楽曲と匹敵するくらい大切なものがあったことに、『取るに足らない僕らの正義』を読んで気づかされた。

著:川野倫
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この記事を書いた人

インタビュアー・ライター。主にエンタメ分野を中心に、著名人のインタビューやコラムを多数手がける。多感な時期に1990年代のサブカルチャーにドップリ浸り、いまだその余韻を引きずっている。

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