何人たりとも誰しもが肚の内に抱える深い闇。その行き着く先は……
多くの人間の肚の内には、暗い淀みがある。
それは嫉妬であり、憎悪であり、欲望である。人々はそれをそっと飲み込み、隠し、見ないようにして日々を送っている。しかし、それは確かに在り、深淵に触れた時、堰を切ったように溢れ出すのだ。
読者の皆さんは肚の内に何を抱えているだろうか。人に言えない秘密は、いずれ必ず自らを蝕むことだろう。
『悪童文庫』は、そんな人々の隠された闇を描いたダークヒューマンドラマである。誰しも感じる焦燥、孤独、諦念、愛情、好奇心、憧れ……。それらは堆積するとやがて醜い感情へと姿を変え、思いもよらない行動を生む。限界を超え、自らを飲み込んでしまう前に向き合わねばならない。自我を保つこと、それ即ち自らのあらゆる感情と向き合い、認め、受け入れることであろう。登場人物たちの抱く暗い感情への共感性は高く、「明日は我が身」と思えるかもしれない。隠された醜い自分と向き合う時間が訪れる。
小説家・鳥羽山真理(とばやま・しんり)は猟奇小説『蠢動』を執筆後、古書店や印刷業者が密集する塵保町にある古書店「悪童文庫」を営んでいた。そこへ、冬陽出版の新米編集者・秋里こだまが訪れる。
新刊の執筆を口説く秋里との出会いにより物語は動き出し、鳥羽山によってさまざまな人間の内に秘めた醜い“真理”が暴かれていく。
焦りを感じるベテラン編集者、愛情に飢えた孤独な女性、禁忌を犯した老人、人間になり切れなかった哀しき怪物、人の不幸に執着する会社員、異端に憧れた愚かなライター……彼らの抱える黒く切ない思いとは。
仄暗い世界観の中、巧みな表情描写で描かれる人間の“真理”
本作はどこか仄暗い雰囲気を纏い、独特の薄暗さを形成している。物語は淡々と進み、大きな起伏はないが円滑な展開で読みやすい。
背景描写は少なく、あらゆる感情に翻弄される登場人物たちの表情に焦点が当てられている。そのため、暗い感情に飲まれ、“堕ちる”彼らの描写はとかく素晴らしい。特に、作中作である小説の一節を用いた類を見ないモノローグと共に描かれる鳥羽山の表情は秀逸。鳥羽山は深淵そのものであり、彼らが深淵を覗く時、やはり彼は歪に嗤うのである。
登場人物たちがひた隠してきた黒い感情は、どれも理解できるものばかり。例えば、部下に出し抜かれるのではという焦り、ただ自分を見てほしいという承認欲求、誰かの不幸を喰らう野次馬根性。SNSが蔓延した現代社会に生きる私たちにも、どこか通ずるものがある。己の醜さを他人に指摘されると、人はなかなか認めることができない。だからこそ、肚の内に隠した醜さと向き合い、受け入れる必要がある。秘密を秘密のまま墓場まで持っていくのは実に難しい。闇に支配される前に、彼らのように深淵を覗かねばなるまい。だが彼らとは異なり、深淵に堕とされる前に、深淵を覗く覚悟を持つべきなのである。
本作には特別グロテスクな描写や表現はなく、深淵は一見美しい貌をしている。だが、登場人物たちから湧き上がる負の感情はどれも胸に迫り、モノローグと共に侵食する。ここに、人間の“真理”がある。
暗い感情を抱えることは決して悪ではない。実に「人間らしい」ともいえる。しかし扱いを間違えればそれらの感情はどんどん積み上がり、底知れぬ深淵となる。深淵は常にこちらを見て、私たちが堕ちてくるのを待っている。
鳥羽山の姿は、読者の皆さんにはどう映っただろうか。
表情が語る卓越した心理描写が光る、独自の世界観を放つ秀作
『悪童文庫』は、田中基氏による、さまざまな人間が内面に蠢く感情を暴かれ、深淵に堕ちる姿を描いたサスペンス・ヒューマンドラマ漫画である。月刊青年漫画雑誌「ミラクルジャンプ」にて2016〜17年まで連載され、2017年に単行本化、完結済み、全1巻。
274ページとボリューミーで、やや物語性に欠けるが読み応えがある。
心理描写が主で、派手な展開はない。その分、人々の内面を食い破らんとする醜い感情の描写は見事で、それに魅せられた鳥羽山の深淵で待ち構える表情もまた異彩を放つ。美麗な絵柄で、手描きの力強さもある。ただ暗いだけではない深い闇、陰の表現が素晴らしく、耽美的な雰囲気だけでも楽しめる。
何と言っても、読まずにはいられなくなる装丁に目を奪われた。「読み給え」と言われているようで、筆者もつい手に取ってしまった。装丁から世界観の構築が巧みな作品と言えよう。
最後に、「新たな漫画に出会いたい」と思ったら、想定外な作品とも出会える“装丁買い”をぜひ試してみてほしい。