「忍者」との親和性、描く必然性
「上忍とは 音もなく 臭いもなく 智名もなく 勇名もなし その功 天地造化の如し」
『万川集海』
「忍者」について調べてみたなら、多くの人が恐らくかなり早いうちにこの文字列を通り過ぎることになるのではあるまいか。忍者発祥の地として名をはせる伊賀・甲賀に伝わる忍術書『万川集海』(注:読みは「ばんせんしゅうかい」または「まんせんしゅうかい」)にある、忍者とはどのような存在であるのか、かくあるべきなのかについて説き記された有名な一節だ。
忍者に関する多数の著書がある、三重大学の国際忍者研究センター副センター長・山田雄司による一冊『忍者はすごかった』から引用すると、その現代語訳は「優れた忍者は抜群の功を成し遂げるけれども、それは音もなく、臭いもなく、知恵者だと言われることもなく、勇者だとほめられることもないが、その功績は天地を創造するほどである」となる。
智名もなく、勇名もなし。
忍者という存在の「無名の人」ぶりを端的に示したこの一節に行き着いて、わたしは「ああ、“べくして”の題材だったんだな」と頷くことになった。この漫画家が忍者に目を向けた主人公を、作品を送り出すのは必然だった、と。
何の話かと言えば、実写映画化されたゾンビパニック漫画『アイアムアヒーロー』などで知られ、冴えないダメ男――まさに“智名もなく、勇名もなし”――な主人公が泥臭く活躍する作風が非モテ系の男性ファン(注:あくまでもわたしの主観による認識である)を中心に熱い支持を得る漫画家・花沢健吾が『週刊ヤングマガジン』に連載中の最新作……現代に潜む忍者を描いた『アンダーニンジャ』のことである。
「忍者」が息づく現代日本とは――その導入について
あらすじとして、第1話の展開を触れておこう。『アンダーニンジャ』の舞台となるのは、世界最大の暗殺組織の一員として、約20万人もの忍者たちが隠れ潜んでいる現代日本だ。
作中の忍者は表向き、太平洋戦争の終結後に進駐してきたGHQによって解体・消滅させられたことになっている(「そもそも、忍者はいつから?」という描写はここにはない。史実と同じく、長らく歴史の裏に存在してきたものと考えてよいのだろう)。戦時中の連合国にとって最大の脅威だったという忍者が、厚木飛行場に降り立ったマッカーサーのコーンパイプに手裏剣を投げ込み暗殺を謀ったことをうかがわせるカットは、小さいながらも作品世界への導入としてとても印象的だ。
しかし、実は戦後70年が過ぎてもなお、忍者の“精鋭”は世界中の宗教戦争や民族紛争、テロリズムなどの最前線で忍びの技を発揮していた。“その他”の忍者であっても国内の官民あらゆる組織に潜伏しており、約20万人が秘密裏に日本国民を監視している。
その“その他”の忍者に属しながらも、末端にあるため職にあぶれてしまっているのが、本作の主人公――ニート同然の暮らしをする無精ひげのけだるげな青年・雲隠九郎となる。
……ボロアパートの天井や柱につまようじの吹き矢を打ち込み、畳にうつ伏せながら「ヒマだ」と呟くのが初登場シーンとなる九郎の冴えない姿に「ああ、こいつは紛れもない花沢作品の主人公だな」と安堵する花沢作品ファンは、きっとわたしだけではないだろう。
その直後、宅配業者に扮して現れたキャリア(注:「中忍以上」のこと。忍者社会の上層にいることが示唆されている)の忍者の男から「仕事」を依頼された九郎は、受け取った段ボールの中身からその「仕事」が高校生としてある学校に潜入するものだと推測する(男は必要のない質問には答えてくれない)。また男に相対する九郎のあれこれから、ズボラに見える彼もしっかり忍者としての所作や感覚を備えているらしいこと、しかも「雲隠一族」という名の知れた忍者の血を引いており、うだつが上がらない現状を少なからず気にしているらしいこと、が明らかになる。
そして第1話は、男の「脱獄したら『抹消』されると思え」(注:脱獄とは「抜け忍」を指す)という言葉にけして穏やかではない忍者の実状を滲ませつつ、九郎の忍装束がパーカーであることが示され、「忍者が存在する現代日本」を改めて強調したところで終わる。随所に“花沢節”の効いた入り口だ。
以降、九郎が「仕事」の準備に取り掛かるのと並行して、彼が住むアパートに、そしてその近隣に不穏なものがぬるりと忍び寄る。これまた作者らしいゆっくりとした進行のもとで、世界観の周知とその導入が丁寧に行われていく。……のだが、その中で垣間見えてくる九郎の人物像に、『アイアムアヒーロー』の鈴木英雄ら過去の花沢作品の主人公たちを見守り、時に自分と重ね合わせてきたファンのひとりとしては、少なからず「おっ」と思うポイントがある。“花沢節”に新機軸が見られるのだ。
「忍者」×花沢健吾の真新しさ、そして安心感
『アイアムアヒーロー』の完結後、週刊文春が実施したインタビュー(※)において、花沢は英雄を主人公に据えた同作のことを「結局、主人公は主人公じゃなかった」「本当の主役はどこかで大活躍していて、その時たまたまカメラのピントが合ってしまったのが脇役の英雄だった、そんな作品だった」と振り返っている。
(※花沢健吾『アイアムアヒーロー』完結。「“ゾンビ”という嘘を描くためにリアルにこだわり続けた」 | 文春オンライン)
「作者による見解だから」という色眼鏡の有る無しに関係なく、この指摘に頷かないファンはほとんどいないだろう。「はからずもスポットライトを浴びることになった脇役」的な冴えないダメ男の主人公像は、『ルサンチマン』しかり『ボーイズ・オン・ザ・ラン』しかり、過去の花沢作品から一貫しているものでもある。また、この主人公のキャラクター造形は、花沢作品の“らしさ”を構成する重要な要素だと言ってしまっても差し支えないだろう。ファンにとっても、特に“『アイアムアヒーロー』アフター”である現在は、以前にも増してお約束的に期待するものとなっているはずだ。
しかしながら、最新作の主人公である九郎は、どうやら見かけどおりの冴えないダメ男ではないようなのである。
パルクールを思わせる忍者アクションをこなす姿には外見にそぐわぬスタイリッシュさがあるし、その達者な口ぶりには意図せず人を惹きつけてしまう天然のユーモアが見え隠れする。そして何より物怖じしない佇まいから、自ら居場所を切り開いていくような性格が浮かび上がってくる。おまけに、その容姿をもって17歳だという年齢設定も、そういった人物像を前向きに補強している(とまで書いてしまうのはさすがに持ち上げすぎだろうか。しかしなかなか思い切った年齢設定ではある。平然と未成年飲酒を繰り返す姿はあまりにも堂々としている)。
象徴的なのは、前日の行動をアパートの住人・大野(注:九郎の隣人の変態おじさん)に聞かれた際の「昨日は年増の女子大生(注:アパートの住人・川戸、吞兵衛のセクシーなお姉さん)と酒を飲んで結局おごってもらって。そのまま彼女の部屋に行ったんですがその子が寝てしまったんで昼過ぎまでロード・オブ・ザ・リングをずっと観てました」という言葉だろうか。大野の反応をそのまま借りるが「意外と充実してる」のである。自分の“リア充”ぶりに触れられても、にべもない様子で流してしまうあたり、花沢作品としてはなかなか新鮮味のある主人公ではないだろうか。
わたしを含む過去作品からのファンにとっては“花沢節”の新機軸の主人公として注目され、その一方で本作で初めて花沢作品に触れた読者には、これもまた“花沢節”の効いた主人公として認識されていくであろう九郎。しかし期待どおりと言うべきか、今回も“智名もなく、勇名もなし”の主人公となってくれるであろうことは、それでも大いに信頼できる。
なぜなら彼は、忍者だからだ。
新鮮味と、ファンが望むお約束としての“花沢節”を上手く両立している、花沢健吾の最新作『アンダーニンジャ』。ゆっくりと丁寧な話運びは第1巻以降でも保たれ、第3巻収録の第27話をもってようやく、九郎が高校の転入試験に合格した(のであろう)ことが描かれる。忍者としての九郎の「仕事」はきっと、これから本番を迎えるのだろう。今後の“現代忍者奇譚”の行方もいちファンとして、誠に勝手ながら高い高いハードルを設けたうえで見守っていくつもりだ。