私たちが当たり前に信じる常識は、本当に常識なのか
私たちが普段何の疑いもなく信じているもの、もしそれが悪意ある何者かが生み出したまがい物であったなら……。
同調圧力を恐れ、協調性を重んじる我が国において、当たり前にあるものに対して異議を唱えるのは実に困難である。
いま当たり前に信じているもの……それをなぜ自分が信じるようになったのか、どうして信じようと思ったのか、改めて自問した時、明確な答えを出せるだろうか。
実際のところ、皆が信じているから、周りが正しいと言っていたから、誤りであるはずがないから、そんな漠然とした答えしか浮かばない人も多いかもしれない。
自分が信じるものは本当に正しいといえるのか、そんな思いが湧き上がる、独自の世界観と重厚な物語性を持った秀逸な漫画がある。
『懲役339年』は、転生が信じられている国における大罪人の刑期を終えるまでを描いたヒューマンファンタジーである。
転生はあり得るのか、魂は変わらないのか。当然疑問に思うことに対して、違和感すら覚えない国民。生まれた時から当然の如く存在している常識を疑うのは難しい。身分制度が当然のようにあった、我が国の江戸時代にも似ているかもしれない。疑問を持っても口にすることすら許されまい。本作に触れれば、私たちの世界がいかに恵まれているかが分かるだろう。
舞台は、神の教えを記した「教典」に基づく戒律を重んじる国。この国では、魂は輪廻すると考えられている。
過去に大罪を犯し、懲役339年の判決を受けたハロー・アヒンサーは、生まれ変わる度に刑務所に収監され、刑期を全うし続けている。
2代目ハローに出会った新人看守のアーロック・ベルマークは、魂の輪廻に疑問を持ち、後に刑務所長となった。4代目ハローに出会った刑務官のシナト・ノアは、アーロックの記した手記を読み、世界の真実に気付き始める。
世間では、世界の在り方を疑問視する革命組織“メーゲン”が生まれ、オレンジマン・トワイロードをはじめとする初代ハローを捕らえた“皇憲隊”と対立していた。やがてアーロックの手記は公にされ、メーゲンに5代目ハロー、6代目ハローが加わることで、いよいよ国の常識は覆されようしていた。真実を知った時、果たしてハローや国民は何を選ぶのか……。
知らず知らず「教典」に支配される国に隠された、目には見えない真実
本作には、どこかの国の壮大な歴史譚を読んでいるかのような充足感がある。
私たちの考えにも通ずる、似て非なる国家の激動の歴史。壮大な構想、現実味のある重厚な設定、悲喜こもごもある飽きのこない展開、読者に委ねるラスト。どこをとっても入念に考え尽くされていて素晴らしい。
他では味わえない、興味深く哲学的な物語を読む作品である。画は力強くシンプルながら、どこか奥行きと生き生きとした動きがある。絵柄で読まず嫌いしている人は確実に損をするだろう。
人はなぜ、目に見えないものにすがるのか。
日本は無宗教とされている。信仰の自由が許されていて、信仰に関して攻撃を受けることもほぼないから、他国民に比べて信仰を理解するのは難しいかもしれない。だが、世界的には日本ほど宗教的な国もないと見られている。それは、日常生活の奥深くまでアニミズムや仏教などを元にした思想や文化が入り込んでしまっており、もはや日本人自体の目からは、自分たちの行動理念が宗教行為であるということを認識できずにいるからだ。
このように、宗教に無自覚な日本人だが、昨今新興宗教が問題視されることも多くなり、今後宗教問題とは無関係でいられなくなるかもしれない。
神を信じることはある意味、理にかなっている。良いことがあれば神の恵み、天佑だと思えるし、悪いことがあれば信心が足りないせいだと思える。自己責任の考えがなくなるわけで、なるほど、生きやすくなるわけだ。
神にすがれば何も考えずにすむわけで、考えることをやめた人間を操るのはどんなに容易なことだろう。神の怒りをかわないようにと異議を唱える者すらいなくなる。
神はますます神格化され、小さな力では風穴を開けることすらできなくなる。
本作は、偽りの神を信じた国民の物語であり、神という不在の存在に踊らされた国の物語である。それは、絶対的な神とその教えを説く「教典」が現れた、いつかの日本の姿なのかもしれない。
物語の発想には、特定の宗教観を認識できない日本人らしさがある。
輪廻や転生はキリスト教やイスラム教など信者の多い宗派では認められておらず、私たちに馴染み深い仏教においても、輪廻からの解脱を目的のひとつとしている。
何の気概もない「来世でまた会いましょう」的な考えは日本的な宗教観の表れともいえよう。特定の信仰を持たないからかこそ生まれた、日本ならではの死生観や倫理観ともとれる。だからこそ、本作のラストシーンは胸に刺さる。
信仰や科学的な裏付けもなく、人の死に対して漠然と「天国で楽しく過ごしてね」「来世でもまた一緒に」と願う私たちにとって、転生はロマンである。
誰も答えを知らないし、永遠に知ることができないからこそ、誰もがそのロマンを捨てることができない。……私たちに来世はあるだろうか。
どの角度からでも、どの視点からでも楽しめる本作。気楽に読んで、自分なりに楽しんでみてほしい。さまざまな意味で学びが多く、不思議と楽しめる。
あなたは本作に何を思うだろうか。
連載投稿トーナメント優勝も頷ける、優れた壮大な歴史物語
『懲役339年』は、伊勢ともか氏による、「教典」を指針に生きる国の激動を描き出したファンタジーヒューマンドラマ漫画である。「第2回裏サンデー投稿トーナメント」優勝作品で、2014〜15年まで小学館によるWebコミック配信サイト「裏サンデー」およびマンガアプリ「マンガワン」にて連載、完結済み、全4巻。
本作にはさまざまな問題提起がある。
それはかつて当たり前に身分制度があった時代を思い起こさせ、現在の犯罪者の更生の在り方について考えさせられる。一度堕ちた魂は環境によって立ち直ることができるのか。できるとして、罪なき人々がそれを受け容れることはできるのか。
何不自由のない人間が、神の成り変わりを望まぬ平和な世界などあるのか。
どこをとっても実に興味深い。普段あまり考えることのないことを、これでもかと考えてしまう。思考が自然と巡る魅力的な物語。
筆者の一押しは、5代目ハローの最後の選択シーンと、「因果応報。これもまた裁き」というセリフ。誰しもの中に姿や形は違えど、神なる存在が確かにいるということだろう。
中身のある骨太漫画を求める人にこそ、ぜひ読んでいただきたい。