※ややネタバレあり
一読すれば、たちまちノスタルジックでイマジナティブな世界観の虜に
『九龍ジェネリックロマンス』(眉月じゅん/集英社)は、思わずその世界に飛び込みたくなるほどに圧倒的かつ魅力的な無二のコミックである。
舞台は九龍城砦、かつて香港にあって“東洋の魔窟”と称されたスラム街だ。建造物および入り組んだ構造が見事に描かれ、部屋の間取りや家具、小物に至るまで香港らしさがしっかりと息づいている。そこには確かな生活感があり、その光景を眺めるだけで胸が高鳴る。行ったこともないのに、経験のない昭和の日常を思い浮かべる時のように、説明のつかない郷愁に駆られるのである。
作品を包む独特な雰囲気とモノクロのページから溢れ出す鮮やかな色彩、映像作品のように生き生きとしたコマ割り、個性的なキャラクター、斬新なファッション……そのどれもに思わずゾッコンになってしまうことだろう。
主人公の鯨井令子は、九龍城砦にある不動産店・旺来地產公司に勤める32歳。同僚である34歳の工藤発(はじめ)に恋している。令子には一切の過去の記憶がないが、ある時工藤が過去に令子と同姓同名で同じ顔をした鯨井B(とする)と婚約していたことを知る。それでも、令子は工藤に鯨井Bではなく、自分自身を見てもらえるように努める。
そんな中、九龍城砦には何やら事情を知っていそうな蛇沼みゆき社長率いる蛇沼製薬が存在感を増していた。
果たして、九龍城砦の真実とは、鯨井令子の正体とは……。
ミステリーとロマンスが入り混じる、儚さ漂うラブストーリー
本作はラブロマンスでありながら、少女漫画にありがちなそれとは一線を画する。大人の恋愛はどこか爽やかで、媚びがない。頭を悩ませる不可思議な要素も多く、さまざまな印象をもって楽しめる。
また、酸いも甘いも嚙み分ける登場人物たちのセリフはどれも素敵で、妙に心に残る。恋愛漫画が苦手な筆者のような人間でも、胸に込み上げる形容し難い甘酸っぱさのようなものを感じられるのだ。
鯨井Bではなく今を生きる自分自身を見てほしい令子と、別人とは理解しながらも令子に鯨井Bの面影を重ね続ける工藤。彼らの恋愛はどこか切なく、儚い。他にみゆきとグエンのゲイカップルも登場するが、蛇沼という家、社長という立場に縛られるみゆきの恋愛も、やはり切なく哀しい。そんな彼らの恋愛は、果たしてどこへ行き着くのだろうか。
ノスタルジックで人々を魅了し続ける九龍城砦を舞台にしながら、かつての“九龍”ではないところがまた素晴らしい。直接的な描写はないが、これは、人類の新天地となる「ジェネリック地球(テラ)」なるものが建設中の未来の物語なのである。鯨井Bと工藤の過去描写、ふと現れる何かを暗示するようなディストピア的描写、過去に“何か”があったことを思わせるセリフ……、過去と現在が交錯する世界でいくつもの謎が積み重なる。その全体像の考察を楽しみつつも、いずれ明かされる真実が待ち遠しい。九龍の過去に何があれ、そこに暮らす人々の未来が明るくあることを願う。
上記のようにどこをとっても粋な本作であるが、その世界観と作画は特筆して秀逸である。飲食店が立ち並ぶ雑多な街並み、快晴の昼や夕暮れ時の屋上、水餃子やレモンチキンなど食欲をそそる中華料理の数々、特別写実的というわけではないが、全ての場面に生気と現実味がある。そのため見ているだけで心は弾むし、ページを捲る手は進むのだ。
息遣いまで聞こえてきそうな圧巻の世界観を持つ、逸格の恋愛漫画
『九龍ジェネリックロマンス』は、眉月じゅん氏による、九龍城砦で繰り広げられる大人の男女の恋愛模様と日常に影を落とすミステリーを描いたSFラブロマンスである。「週刊ヤングジャンプ」にて2019年より連載中、既刊8巻。
本作を一言で表すならば、「名作映画」だ。人物の表情は多角的かつさまざまな画角で描かれ、光と陰が有効的に使われている。まさに次々と切り替わるカメラワークそのもので、目を瞑ればたちまち彼らに命が宿る。平面であるのに立体的で、没入感を高めれば自分も物語の中で強い日差しを浴び、クセの強いタバコの匂いさえ嗅げてしまうだろう。
あらすじなどを読んだところで、ストーリーは軽く想像を超え、ハッとするような展開をもたらしてくれるので、まずは読んでみてもらいたい。否応なしにその世界観に引き込まれ、誘われるに違いない。現在、九龍城砦はもう存在しない。故郷でなければ縁もゆかりもないのだが、なぜかあの懐かしさに帰りたいと思うのだ。