2020年の文化庁メディア芸術祭新人賞受賞作。“知る人ぞ知る”ポジションのミュージシャンを父に持つ女子高生の頬子と、頬子の父親のファンでもあるクラスメイトの八尋くんとの甘酸っぱい恋を繊細に描いたガールミーツボーイの傑作コミック『花と頬』。好きな文学や音楽の話題で徐々に距離を縮めていく二人を、まるで映画のようなコマ割りと繊細なタッチで描いた本作の魅力について、デジタル時代の「筆談」の良さに着目しながら紹介したい。
ルーズリーフの片隅で交わされる断片の豊かさ
みずからペンを手に取る機会も、誰かの手書き文字を目にする機会もめっきり減った昨今、芸能人同士の「結婚しました!」報告で「こんなクセ字を書く人だったんだ」と驚くことはあっても、身近な人がどんな字を書くのか知らないという人もきっと多いはず。でもコロナ禍で会話するのが難しいこのご時世だからこそ、マスクをしたまま「筆談」でやりとりする、なんていうケースもひょっとしたら今後増えてくるかもしれない。イトイ圭の『花と頬』を読んでいると、「しゃべっちゃいけない場所で言葉を交わす方法」としてのアナログの「筆談」が実に豊かに感じられ、ふとそんなことを思い浮かべたりしてしまうのだ。
同じ高校のクラスメイトである頬子と八尋くんが言葉を交わすようになったきっかけは、たまたま図書委員に選ばれたこと。「九州から来た背の高い転校生」としてしか認識していなかった八尋くんから、ある日「ホホコさんのお父さんって、“花と頬”の人って本当?」と話しかけられた頬子は、彼が父のバンドのファンであることを知り、次第に興味を惹かれていく。司書の先生が図書室内での生徒の私語に厳しいことから、二人はルーズリーフの片隅に書いた文字で会話するようになるのだが、断片的な単語のやりとりを手書きで何往復も重ねる方が、今どきのテンポのよいLINEのやりとりよりもはるかに情緒的なのだ。
「どうして私のことわかったの?」「父は妻子持ちって公表してない」という頬子の問いに、「すごいファンなんだ」とかみ合わない答えを書き込む八尋くん。さらに「なぜ?」と追及しても、しばらく考えあぐねた挙句に一旦書き始めた言葉をぐしゃぐしゃと塗りつぶし、「ここには書ききれない」と理由を教えてくれはしない。だが「字は体を表す」という言葉があるように、そこに書き残された彼の文字が“悪筆でも達筆でもない、フツーの男の人の字”であることや、“ペンの持ち方は綺麗”であることなどからも、八尋くんの人となりが何となく伝わってくる。二人はその後も好きな音楽や小説のタイトルをいくつも並べて互いの得意分野を教え合い、ルーズリーフの断片が増えるにつれ、少しずつ心の距離も縮まっていく……。
「有名人の娘」であるがゆえの葛藤が恋の邪魔をする……
相手が自分にそれほど興味がないと分かっているのに、自分ばかりが相手を好きな気持ちを止められない。それ自体は片思いを経験したことのある人なら、誰もが身に覚えがあるだろう。だが、頬子の場合はそこに「普通の人」なら味わわなくてもいいはずの二重の苦しみがある。頬子の父は八尋くんのことを「“花と頬”のグルーピーの一種」と見なし、頬子も「(彼が好きなのは)私じゃなくて“パパの娘である私”だってわかってる」と口にする。それでも八尋くんに喜んでもらいたくて父親の話をしてしまう自分に嫌悪感を抱き、「有名人の娘」という宿命を背負った自らのアイデンティティが揺らいでしまうのだ。
この一連の描写を目にしたとき、有名人やその周辺の人たちが感じる孤独や切なさの一端を、ほんの少しだけ垣間見たような気がした。「自分であって自分ではない」。そのイメージを見ている人とリアルで相対することに、何の葛藤も覚えない人はきっといないだろう。あくまでも頬子と八尋くんという二人の高校生のやりとりであるはずが、その背後にある「自分ではどうにもならないこと」に対する無力感や諦めのようなものが、若さゆえの純粋さや無防備さと相まってより切実に感じられ、胸が締め付けられた。
そんな中、もっとも置いてけぼりになっていたのが、実は八尋くんの気持ちだったりする。彼は彼でトラウマを抱えながらも、「大好きなミュージシャンの娘」である頬子に対して、とても高校生とは思えないほどの誠実な態度で接している。ファン特有のミーハーな面も持ち合わせつつも、妙に大人びた対応で頬子を守ってくれるジェントルマンでもあって、なかなかに出来たヤツなのだ。
ルーズリーフの片隅からスタートした二人の淡い恋は、いつしかリアルなコミュニケーションへと形を変えていくが、そのテンポはあくまでも手書きのままで、どこまで行ってもたどたどしい。断片の集合体とも言うべき、独特なカット割りとセリフによって複雑な心模様を繊細に描き出し、まるで短篇映画を観たあとのような心地にさせてくれる『花と頬』。好きなレコードを掛けながら、遠い日の甘酸っぱい思い出に浸りたくなる一冊だ。