2020年に公開されたアニメーション映画の原作コミックとして一躍注目を集めた、漫画家大野裕之による『音楽 完全版』。思い付きでバンドを組んだ不良学生が、ロックフェスに参加する顛末を描いた表題作「音楽」のほか、「ラーメン」「山」「漫画」も収録されている。アニメから入ってその不思議な魅力の虜になった筆者が、初期衝動に駆られて初めて音を出したときの感動を、シンプルな画と文字と余白だけで完璧に表現した『音楽』の凄さに迫りたい。
動かないはずのページの臨場感はまるで“禅”の境地
岩井澤健治監督が豪華声優陣と手掛けたアニメーション版は、アニメ公式サイトによると「制作期間は約7年超、作画枚数は実に40,000枚超を全て手描き。クライマックスの野外フェスシーンをダイナミックに再現するため、実際にステージを組みミュージシャンや観客を動員してのライブを敢行」したといい、「分業制、CG制作が主流のアニメーション制作において、何もかもが前代未聞」というのもうなずける。だからこそ、原作コミックを手に取って読んだとき、余白たっぷりのシンプルな手描きの線とダイナミックなコマ割りを目にして、動かないはずのページの臨場感がまるで禅の境地のように感じられ、思わず息を呑んだのだ。
筆者がシンプルな線で表現された画と手描き文字に惹かれるのは、きっと書道をやっていたことが、少なからず影響しているはずだ。“白と黒だけで再現された無限の宇宙”のようなものが、潜在意識のなかに刷り込まれてしまっている。だが、今回はアニメ版を先に観たことも明らかに影響を及ぼしていて、登場人物のセリフがアニメ版の声で再生され、聞こえないはずの低いベースやドラムの振動すら、紙面から伝わってくるかのようだった。だからといって「聞こえないはずのメロディが、あるひとつの答えとなって提示される」といったような、そんな単純な話ではない。
原始的なロックにメロディはない。あくまでもシンプルなビートのみ。
楽器すら触ったことのなかった不良三人組が「バンドやらないか?」という、スキンヘッドの研二の言葉に促されるまま、学校の音楽室からベースとドラムを適当に見繕って持ってくる。研二の部屋で「せ~の!」でとにかく音を鳴らしてみたところ、原始的な“音楽”の面白さに開眼。天啓に導かれたかのようにただただベースをかき鳴らし、無我夢中でドラムを叩く。そこにメロディはない。あくまでもシンプルなビートのみだ。
彼らは学校の屋上でタバコをふかしながら「ベースの頭についてるあれは何だろう?」「あのつまみは回して音をビョーンってするための物なんじゃないか?」と真剣に音楽談義を交わし、女友達の亜矢に「いまから俺たちのことはミュージシャンと呼びなさい」と命令。インスピレーションに従い、“古武術”というバンド名で活動することにする。
フォークソングを演奏する“古美術”というバンドが既に活動していたことが分かったが、ジャンルこそ違えど、“古武術”の演奏に「ロックの原始的な衝動を感じた!」と感銘を受けた“古美術”のメンバーのススメで、彼らもロックフェスに参加することになる。すると、言い出しっぺの研二が「……俺バンド飽きた」と、すっかりやる気をなくしてしまうのだ。
その後、実は研二がリコーダーの名手だったことが判明し、ロックフェスの当日、“古武術”のステージにリコーダー片手に登場。さらに“古武術”が即興で生み出すセッションに魅了されたギターの名手が乱入し、演奏者も観客もいつしかとんでもない境地へ誘われてゆく。
映画『コーダ あいのうた』の空白も凌駕するかのような「音楽」の表現
矛盾するようだが、聴こえないはずの「音楽」が聴こえるのは、アニメ版だからではない。今年の米アカデミー賞で話題となった映画『コーダ あいのうた』において、家族の中でたった一人の健聴者である少女の歌が、聴こえない家族の耳にも届いたように、『音楽 完全版』にも、「そもそも音楽とは何なのか」という哲学的な問いを真正面から突きつけられる。アメリカの東洋美術史家・フェノロサが薬師寺東塔を見て「凍れる音楽」と表現したように、“シンプルな線と余白”という“音楽ではないもの”を“音楽”にしてしまえる大野裕之の手腕に、心底驚かされた。