同時代を生きる読み手として、その恩恵にあずかれることを誇りに思う『東京ヒゴロ』

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『東京ヒゴロ』(松本大洋/小学館)

『ピンポン』(小学館)『鉄コン筋クリート』(小学館)などで人気を博す松本大洋の最新作『東京ヒゴロ 』 。『このマンガがすごい! 2022』(宝島社)オトコ編で5位にランクインした話題作であり、9月30日に待望の2巻が発売。シュールな絵柄で独自の世界観を切り拓いてきた松本大洋が、初めて取り組む「漫画の世界」を舞台にした作品であり、今年で55歳を迎える円熟期だからこそ到達したであろう、漫画家としての哲学や“仕事の流儀”が随所から感じ取ることができる、まごうことなき傑作だ。言葉の端々に人生の悲哀が滲む、個性豊かなキャラクターたちが織りなす人間模様と、再起を図ろうと決意を新たにした男の内にたぎる、青く静かに燃える情熱。黒い傘を風にもっていかれてしまう男の「あ」という声と、その瞬間の顔を切り取った冒頭からして、ベテランの風格を漂わせている。

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早期退職する漫画編集者が23年担当した作家に贈る言葉の重み

主人公は、30年に渡って大手出版社で漫画編集の仕事に身を捧げてきたものの、立ち上げた漫画雑誌が廃刊に追い込まれたことから、責任を取って早期退職することを決意した、ベテラン漫画編集者の塩澤和夫。最終出社日を迎えた塩澤が、かつて23年担当していた漫画家・みやざき長作(ちょうさく)のもとを5年ぶりに訪ね、ずっと言えなかった本音を伝えにいく場面に一気に心を掴まれる。

長年打ち合わせに使っていた馴染みの喫茶店で、タバコをふかし「よくここでケンカしたよね」「はい。立腹したあなたに灰皿を投げられました」「フフフ。メンゴメンゴ」と、ひとしきり思い出話に花を咲かせたあと、塩澤は、「あとひとつ……お伝えしたいことがあります……これは少し話しづらいです……」と口ごもりながら、「長作君、あなたの漫画は、かつて輝いていました。今、あの光はどこかへ……消えてしまった」といきなり核心を突く。

思いがけず冷や水を浴びせられた作家は「なんだよ、唐突に……。わざわざダメ出しに来たわけ?」といぶかるが、塩澤は意を決して「私もこのことをお伝えすべきかずいぶん悩みました。でもね長作君、私には君の心がそこにないように見えるのです。あなたの漫画がもうずっと長いこと……空っぽになってしまったように感じるのです」と畳みかけ、さらに「これはあくまで私見ですので……失念してくださって構いません、ハイ。でもね、長作君……あなたには再び輝いていただきたい……。漫画から逃げないでいただきたいのです」と、担当編集時代には決していえなかった愛ある言葉を、長作に真正面からぶつけるのだ。

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不退転の覚悟でお宝漫画も処分しようとするが……古本屋店主の言葉に救われる

作家の側からすれば、きっと自分でもずっと見ないようにしてきた傷に塩を塗り込まれるような、とんでもなく“はた迷惑”な置き土産だが、愛ゆえに発せられた言葉であることも、痛いほど理解したはずだ。その証拠に、塩澤自身は不退転の覚悟で漫画を諦めるつもりで、これまでずっと心の支えにしてきた宝物の漫画本の数々を、一度はすべて売ろうと決意して、古本屋の店主に買い取り査定を依頼する。だが、すべてを段ボールに詰め終え手渡そうとしたその瞬間、突如段ボールの底が抜け、ちらばった漫画を目にした途端、「やっぱり売るのをやめます」と店主に頭を下げるのだ。

この場面に登場する、大量の漫画を「本当にいいの?」と何度も確認しながら、汗をふきふき買取査定していた古本屋の店主の言葉が、これまた非常に心憎い。塩澤はきっと怒鳴られても仕方ないと思っていたはずだが、店主はこんなにもグッとくるセリフを残して去っていく。

「え‥…やめるってナニ? 売るのやめるってこと?」「はい、申し訳ございません」「気が変わっちゃったってわけ?」「大変……失礼いたしました‼ あっそうだ、コレを……これを引き取ってください。些少ではありますが……」「いいよ。無理して売ってくんなくてもいいよ」「あ……いや、……しかしそれでは……」「わかるんだ、アンタの気持ち。オレも、好きだから……漫画」

「作家」である松本大洋が真摯に見つめる「漫画編集の世界」

一度は漫画から完全に手を引くことを決意していたはずの塩澤だが、とある漫画家の葬儀に参列したことも、彼に初心に立ち返らせる、大きなきっかけとなる。亡くなったはずの作家の幽霊が、仕事部屋で彼に諭すように語りかけた「ねぇ、知ってる? 塩澤君。人はだれでもいつか死んでしまうみたいよ」という言葉に、思うところがあったらしい塩澤は、再び長作のもとを訪れ、「私はもう一度漫画を作ってみようと思うのです。描いていただけますか?」と長作にオファーする。そして、かつて一緒に仕事をした仲間や、組んでみたかった作家のもとを訪ね、再び理想の漫画雑誌を作ろうと奔走しはじめるのだ――。

松本大洋自身は当然ながら、漫画編集者ではなく作家側の立場だが、作家としてこれまでさんざん漫画編集者の仕事ぶりも目にしてきたはずだ。だからこそ、きっとこんな視点からリアルでエモーショナルな漫画が描けるのだろう。塩澤が長作に放った言葉ではないが、現役の漫画家が「漫画編集の世界を描く」ことと真摯に向き合い、脂の乗り切った画とともに含蓄のある言葉を紡いでいく。それがどれほど稀有で、どれほど素晴らしいことか。松本大洋と同時代に生きる読者の一人として、最新刊の『東京ヒゴロ2』を手に取れるという恩恵にあずかれる幸せがある。

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この記事を書いた人

インタビュアー・ライター。主にエンタメ分野を中心に、著名人のインタビューやコラムを多数手がける。多感な時期に1990年代のサブカルチャーにドップリ浸り、いまだその余韻を引きずっている。

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