「もうずっとお盆のままならええのに」――“おしょらいさん”と囚われた8月15日
お盆にはご先祖様があちらの世界「常世」からこちらの世界「浮世」に帰ってくる。送り火を翌日に控えた8月15日。お盆の間だけご先祖様――六堂町のある地域では「おしょらいさん」と呼ぶ――の姿を見ることができる秋は中学最後の夏休みを迎えた今年も、飼い猫のしじみやおじいちゃん、春先に雷に打たれた同級生の新見くんら、帰ってきた死者の姿を町に見つけていた。結局この日は町を散歩するだけで過ごしてしまった秋は、些細なことから気まずい雰囲気になっている親友のミサっちを明日の送り火に誘う勇気が出ない。
「もうずっとお盆のままならええのに」。その夜、ミサっちへの気まずさを抱えたままふらりと外へ出た秋がふと妄想を浮かべていると、空に不思議な渦が現れた。秋がその渦に吸い込まれそうなものを感じていると、浴衣姿の白い髪の青年が「あかん!」とその手を掴む。警戒して逃げ出した秋だったが、青年はその背中に「もしこれから何かおかしいことがあっても心配せんでええから」と呼びかける。そして翌朝。“今日”の送り火について口にした秋は、「送り火は明日やん」と家族に勘違いを指摘された。テレビには、「終戦記念日」のテロップが映る……。
先祖は「帰ってくる」――お盆の“ひと夏の不思議な冒険”だけで終わらない妙
「人は死しても霊は遠くへ行かず、故郷の山々から子孫を見守り、正月や盆には『家』に帰ってくる」。日本民俗学の父たる柳田國男が、その著書『先祖の話』(角川学芸出版ほか)に遺したところの先祖観の概要だ。1945(昭和二十)年、東京大空襲の直後に記されたものだが、この見方には令和の現代でもなお「考えてみればなんとなくそう理解しているような」という声が上がってくるのでは。その「帰ってくる」という先祖観について、より思い入れを抱くようになるとすれば、ごく身近な人の死に接してから迎える盆ではないかと思う。『盆の国』は、そうして“盆の当事者”となってから読むと味わいの深いマンガだ。
物語は冒頭のようなあらましで、主人公の秋、そして秋と再会して行動を共にする青年・夏夫だけが、8月15日を繰り返していることに気付いた状態から進む。しじみとおじいちゃんをはじめとする、愛らしいビジュアルのものが多い「おしょらいさん」(漢字では「お精霊さん」、舞台とされる京都での先祖の呼び方だ)が町にあふれる様子は、“ループ”に囚われた秋の境遇も相まってなんとも“ひと夏の不思議な冒険”感があり、ファンタジックだ。
しかし一方で、8月15日のまま、つまり送り火が行われない世界が続くうちに町には徐々におどろおどろしい「おしょらいさん」も増え、物語にも不穏さが滲む。作中、ひとりだけこんがりと日焼けしている秋は、物語の当初はいかにも元気ではつらつとした人物像をうかがわせてくれる。しかし、段々と「常世」に近付く世界ではどこかその薄暗さに“馴染んで”見えるのが、描写の妙であり、物語の妙でもあるだろう。容姿で言えば、目鼻立ちがくっきりと描かれている夏夫の片二重が強調されているのも、通して読むと実に上手い。この部分についてはネタバレも含んでしまうので、実際に手に取って確かめてほしい。
死者を迎え、送る。生者の我々が「お盆」にやっていることとは
作中、軸となるのは夏夫をキーパーソンに“盆の国”での経験を経て変わる秋の姿なのだが、“盆の当事者”として読むならば「新見くん」にも注目されたい。秋の同級生で野球部に所属していた彼は、落雷のひどかった春のある日、雷に打たれる不慮の事故で亡くなっているのだが、秋と彼のやり取りは死者に思いを馳せる生者すべてに問いかけるようなものでもあり、身近な亡くした人を重ねて胸に響く。我々は、死者を盆に迎え、そして送ることで、何をしているのか。昨年亡くなった父が帰ってくる姿を想い、考えている。
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