『ファイブスター物語』漫画という表現方法はどこまで省略を許されるのか

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ファイブスター物語
『ファイブスター物語』永野護/KADOKAWA
目次

物語を描くための設定ではなく設定ありきでつくられた物語

漫画とは、省略の表現方法と言われる。きっかけとなる一枚の絵と、シンプルなセリフ一行を読者に与えることで、そのキャラクターの動き、感情から周囲の空気までを読者に想起させることができる。これは、他のエンタメメディアと比して圧倒的なアドバンテージだ。例えば、映画ならカット割で時間や空間の省略はできるが、殴られた時に「いったーい」、ショックを受けた時に「ガーン」というセリフで心情の演技を省略することは許されない。

では、漫画はどこまで省略できるのだろうか。今回紹介する『ファイブスター物語』はある意味、その究極といってもよい作品である。

本作は、KADOKAWA発行のアニメ雑誌『月刊ニュータイプ』で1986年から連載が続くSF作品……である。SFと便宜上定義したが、作者である永野護氏は本作をおとぎばなしと位置づけており、実際作中にはドラゴンや騎士、魔法といった要素が数多く出てくる。

魅力は、メカデザイナーとして一斉を風靡した永野氏の描くロボットや登場人物のデザインである。1984年に放映された『重戦機エルガイム』というロボットアニメで、それまでの日本のロボットには存在しなかった、きちんと曲がる骨格フレームを設定した永野氏のデザインは、極めて工学的であり、衝撃をもって迎え入れられた。それまでひとつなぎのモノコック構造でしかなかった日本のロボットアニメは、エルガイムを機に大きな転換を迎える。

永野氏は、このエルガイムのメカやキャラクターをデザインするに当たり、膨大な数の設定資料を作っていたそうだ。放映終了後、この設定資料を目にしたKADOKAWAの編集が「これを使ってエルガイムのリメイクをしてくれないか」と永野を誘った……というのが、本作がつくられたきっかけである。KADOKAWAとしては人気のあったエルガイムのコミカライズをお願いした位の気持ちだったのかもしれない。が、出来上がってきたのはそれまで誰も見た事のないような、壮大すぎて唖然としてしまう漫画であった。

前代未聞の粗筋を語らないという作劇手法

舞台は「ジョーカー太陽星団」という4つの恒星をもつ太陽系。主人公である光の神・天照は、このジョーカー太陽星団をつくった神である。ジョーカー太陽星団に肉体をもった神として生まれ落ちた天照を中心に、彼の王国に集う騎士(作中ではロボットを操縦する事のできる超人間を騎士と呼ぶ)や、騎士がロボットを動かすために連れ歩く、ファティマ(またはオートマチックフラワーズ)と呼ばれる人工生命体たちの出会いと別れの物語が語られる。

とまあ、こう書くと壮大な歴史物語が浮かぶかもしれない。だが、実際のところ、こうした騎士とファティマの物語のほとんどが、劇中では描かれないのである。ちらりと先に触れたが、本作はそもそも設定資料集である。そのため、第一話に先立ち、見開きを使ってジョーカー太陽星団の年表が読者へ提示された。ジョーカー太陽星団の誕生から、天照とヒロインであるファティマ・ラキシスのあいだに新たな光の神が誕生するまでの数千年にも及ぶ長大な年表に、読者は「物語」と「ロマン」を感じた。

この時は、この「物語」と「ロマン」が本作のすべてであることに恐らく誰も気がついていなかった。

連載第一話は、まさかのとあるエピソードの最終回。まったく意味は分からないが、巨大ロボットを操縦する二人の騎士の戦いが続く。だが、二人が戦っている理由は、年表に2行で記された戦争の最終決戦の場面であることに、読者はすぐに気付いたのだ。この感覚は衝撃的だった。テストの直前、たまたま開いた教科書のページがまるまると出題されたかのような感覚だ。要するに本作は、漫画ならば劇中で説明するべきキャラクター設定やあらすじを、年表を使って極力省略することで成り立っていたのである。代わりに描かれるのは、年表には描かれない人間の感情だ。

我々は織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれることを知っているが、彼らがどのような心情で生き、どのような感情を経てそのような事態に陥ったのかまでは分からない。だから、その隙間を妄想できる歴史小説や大河ドラマは人気がある。しかし、同時に歴史物は、歴史的事実という粗筋から外れる事は出来ない。大河ドラマが、個人個人の歴史認識の違いなどで荒れる光景は毎年のように見受けられる。これが歴史物の面白さと限界である。

だが、そもそもの歴史前提がすべて創作だったらどうなるだろうか? もしかしたら粗筋を気にする必要がなくなり、歴史物の美味しいところだけを抽出できるようになるのではないだろうか? 本作は年表という設定資料を公開する事によって、漫画の粗筋を語るという手間を省略し、この実験を行った作品と言えるのである。この手法は、読者がジョーカー太陽星団の歴史年表をきちんと読み込み、粗筋や登場人物の立場を学んでくれるという前提に甘える必要がある。普通の漫画ならば、こんな丸投げ作劇法は編集者から駄目出しを食らうだろう。だが、本作は何故かそれが許されてしまった。結果、永野氏は設定を次々と更新・公開し、我々の前に披露し続けた。実際、本作の漫画単行本は現在15冊しか出ていないのに対し、1冊3000円を軽く超えてくる設定資料集は30冊を超えている!

漫画を読まないという漫画の楽しみ方

こうなってくるとこの作品は暇つぶしではなく、勉学へと変わってくる。新刊1冊出る度に、読み終わるまで1時間以上かかるというのは、大げさでも冗談でもない。一例を上げると、本作には、突然名前も立ち位置もよくわからないキャラクターが登場することがある。が、実はそのキャラクターは10年以上前に1コマだけ登場していたり、設定資料集でさらりと触れられていることがある。だから読者は勉強した知識を忘れないように、何度も何度も、単行本と設定資料集を読み返す事になる。そして、永野氏が作り出した設定は、何十回何百回読もうとも常に新しい発見があるくらい緻密で繊細なのだ。自らの知識の蓄積と、漫画で行うその答えあわせの連続こそが、この物語の真の楽しみ方なのだ。

粗筋を省略した効果は、思いもよらない形でも現れている。永野氏はデザイナーとしても超一流なので、劇中に登場する服飾は必ず現在の技術で再現することが可能な構造となっていた。そして、設定資料集のなかには、キャラクターが着ている服の構造だけを記したものもある。異世界然としながらも再現が可能な衣装の存在は、コスプレ界隈で知られることになり、本作のコスプレ衣装を自作する事が、一流コスプレイヤーの証となった。同様に、関節からすべて設計されているロボットも、必ずプラモデルで再現可能であり、本作のマシンを組む事はモデラーにとって究極の目標だ。漫画単体としても、典型的な英雄譚は十分に楽しめ面白いが、原作漫画をまるで読んだ事がないのに、熱狂的なファンがいるというのは、本作ならではないだろうか。

現在連載35年経ったが、漫画に描かれているのは年表の1割にも満たない。漫画という表現を用いる限り、年表で語られている歴史は決して最後まで語られないだろう。だが、本作の読者は、そもそもすべての粗筋をすでに把握している。だから、それでいいのだ。この作品は、永野氏のつくった設定を学び、妄想し、ジョーカー太陽星団の一員となることがすべてなのだから。

著:永野 護
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出演:堀川亮, 川村万梨阿, 井上和彦, 若本規夫, 佐久間レイ  デザイン:結城信輝  監督:やまざきかずお  原名:永野護  脚本:遠藤明範
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この記事を書いた人

フリーの編集者。雑誌・Webを問わずさまざまな媒体にて編集・執筆を行っている。執筆の得意ジャンルはエンタメと歴史のため、無意識に長期連載になりがちな漫画にばかりはまってしまう。最近の悩みは、集めている漫画がほぼほぼ完結を諦めたような作品ばかりになってきたこと。

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