『いやはや熱海くん』(KADOKAWA)著者の田沼朝による短編集。男性ふたりの特別な友情を描く表題作「四十九日のお終いに」ほか、休憩スペースで時折顔を合わせる、つるまない女性同士の交流を描いた「海はいかない」、「旅は道連れ」など、漫画誌「ハルタ」(KADOKAWA)に掲載されたすべての読み切り作品と商業未発表作品を収録した本作。画風も描かれるお話も、肩ひじ張らずに読める、どこまでも淡々とした作風に注目しながら、本作ならではの魅力をひも解きたい。
他愛もない会話のやりとりで進んでいく珠玉の短編集
ある日、社内で見かけた外部の作業員に頭をペコっと下げられて、「なんか見覚えがあるような……」「ほぼ家と会社の往復しかしていないのに、どこで見かけたんだろう?」と思いながら休憩所に向かうと、そこでちょくちょく顔を合わせる人だった、という、現実にありそうな交流を描いた「海はいかない」。特に会社勤めをしていると、「毎朝乗る電車の車両も座席もほぼ同じ」という人がほとんどで、名前も職業も知らないけれど、家族や友人よりよっぽど長い時間を共にしていることが不思議でならなかった。そして「この人たちも自分と何らかの縁がある人と言えるのだろうか……?」と眠い頭でよく考えたりしていたものだった。
誰かと知り合うきっかけは、家が近所だったり、学校や職場、習い事が同じだったりする以外は、よく行く飲み屋やカフェの常連同士、マスターや店員を介して会話を交わすようになって……というくらいしかバリエーションが思いつかない。最近ではマッチングアプリを使って知り合う人もいるのだろうが、一生の友と呼べるような人や結婚相手と出会える確率は限られているかもしれない。そんな中で、性別問わず気が合う人と知り合えたら、それはもうある種の奇跡と言っていいのではないかと、年齢を重ねるにつれ、ますますそう思うようになった。
先述した「海はいかない」の登場人物のふたりも、休憩所で言葉を交わすようになってから、妙に馬が合うことがわかり、一緒にコンビニまでアイスを買いに行って公園のベンチで食べながら、この夏の予定について話したりしている。お互い会社の人とはつるまない一匹狼にもかかわらず、「宗田さんとしゃべれるようになっただけで 十分ですこの夏は」「……すごいタラシみたいなことを言う……」と言いながら、「あ、でも、ずっと話してみたい人はいるんですよね」と、近所の玄関先で見かけて気になる人に勇気を出して挨拶をしてみたり……と、他愛もない会話のやりとりだけで進むユルい物語が、妙にいまの自分にフィットするのだ。
表題作の「四十九日のお終いに」の登場人物も、20年来の付き合いになる幼馴染みのふたりの男。長年反りの合わなかった父親の葬儀の夜に、母親から思いも寄らなかった驚きの告白をされ、少なからず動揺して体調を崩してしまった主人公が、世話焼きの幼馴染みの男友だちの優しさに救われる。そして、ふと「俺さぁ、人生最大の成果はお前かもしれん、暫定で」「だからこの感謝の気持ちを一番に伝えるべく……」と幼馴染みを前に、どこか遺言めいたセリフを口にしては「……お前まさか死ぬつもりちゃうやろな」とツッコミを入れられるのだ。
誰かに自分の本音を打ち明けることで生まれる微かな希望
面と向かって誰かに自分の本心を打ち明ける機会というのは、きっと人生において何度もあることではないだろう。だが、普段インタビューを生業としている筆者にとっては、「これ、本音では……?」と感じる瞬間に立ち会うことは、意外と日常茶飯事だったりもする。ほぼ初対面でしがらみのない相手だからこそ、つい気を許して打ち明けたくなることもある。常に気を張っていなければ誰かに足をすくわれかねない人気俳優や芸人なら、なおさらだ。
聞いてしまった以上、こちらも生半可な対応はできないから、直接的な言葉では書かずに、そのニュアンスを滲ませるといったテクニックが求められたりもするのだが、AIではなく、人間のライターである自分ができることは何かと考えると、誰かの内側からふとした時にこぼれ落ちた言葉を手のひらで受け止めて、濁りのない目でそれを見つめ、常に湧き出てくる透き通った泉のような場所へとふたたび解き放つことしか、出来ない気がしてならない。
『四十九日のお終いに 田沼朝作品集』を読んでいると、恋人や家族や友だちばかりでなく、たとえ一期一会の相手であっても、そういった関係を築くことができるのではないかと思わずにはいられない。いろんなタイミングでいろんなご縁でたまたま出会った人たちと、束の間でも本音で言葉を交わし、心の内に思いを馳せることができれば、ひょっとすると何かが生まれるかもしれない。そんな可能性を信じたくなるような希望が、本書には溢れている。